備忘録

教育系の大学生です。雑多な内容です。

高校時代の恩師と小林秀雄

 先述の通り、私は現在教育学部に籍を置いている者だ。もう4年生なので本来ならばほとんど授業はないはずだったのだが、どこでなにを間違えたのかなぜか履修の上限ギリギリまで授業を選択している。

 そうして(再)履修している講義の一つに小学校の国語について理解を深めようという趣旨のものがある。そこでふとタイトルのことを思い出したのでまとめたいと思う。

 

注:このブログはこれからの卒論執筆に向けたリハビリも兼ねて書かれていきます。内容は人文学や教育学がメインになります。多分あまり面白くないです。

 

 

 さて、この小学校国語の授業はオムニバス形式らしいのだが、半数を近代文学専門の教授が担当している。そのためいま扱われている教材はなんと夏目漱石の「現代日本の開化」である。「現代日本の開化」だ。信じられるだろうか、高校の現代文の授業で何時間もかけて行われる教材である。私も高校2年生か3年生の時にタイトルの「リアル仙人のような教員」から習った覚えがある。評論を読むこととは、という授業内容なので大学生向けの題材で正解なのだが、小学校の国語からかなり離れたところにある作品ではないかと思わず笑ってしまった。(ちなみに「夢十夜」もやるらしい。こちらは高校時代やらなかったのでとても楽しみ)

 

 この評論、現在の口語とは表記や言い回しが異なるので読みにくさはあるが、そもそもが夏目の講演を文章化したものなので内容そのものは見かけほど難しくないと感じる。恐らく青空文庫にあるのではと思うのでぜひ読んでみてほしい。夏目のユーモアも感じられるので。

 

 書き始めてみると一向に小林秀雄が出てこない。

 

 この、仙人のような、私が「現代日本の開化」を初めに学んだ教員がよく投げかけていた言葉が小林秀雄のものだった。

 そもそも小林秀雄とは誰か?浅い知識で恐縮だがざっくり説明すると、彼は昭和初期から活躍した文芸評論家である。そしてそもそも文芸評論というものを確立した人でもある。文学を学んでいない私でも日本を代表する文化人・知識人であることはわかるくらいのとにかくすごい人だ。あとは各自でお調べいただきたい。

 小林秀雄の「無常ということ」(三省堂『高等学校 現代文B』2015年版での表記。1946年の初刊では「無常といふ事」)も教科書に収録されており、またかの教員に授業をしてもらった文章の一つであった。彼は初回の授業の時に黒板にこう書いた。

 

 美しい「花」がある。「花」の美しさといふ様なものはない。

 

 このフレーズの出典は恐らく新潮文庫の『モオツァルト・無常という事』に一緒に収録もされている「当麻」であろう。小林の数ある名言のなかでもかなり有名なものらしい。板書をし、そして彼は続けた。これは今から読む小林秀雄という人の言葉だ、どういうことかわかるか。さあ読んでいこうか、と。

 

 「無常ということ」の授業はとても面白いものであった。それまで教科書で出てくるような評論は科学や貧困など現実の問題をテーマにしたものが多く、文芸評論というものはあまりなかったと記憶している。これは大学で学んだ分類だが、自然科学など事実を検討する学問とは違い、人文科学は価値を検討するものだという考えがあった。「無常ということ」はまさしくこの「価値の検討」をしているものだ。授業で小林秀雄を読んだ、ということが私にとっては本当の意味で人文科学に触れた初めての機会であったのだと思う。

 何回目かの授業が終わったときに私は先生にこう尋ねた。

「先生が初回に引用された言葉は、人が「美しい」と思う感覚は科学で分析できるようなものではないということですか」

文中に出てくる「美学」というワードの読解を受け、それを踏まえての質問であったと思う。先生が答えた。

「まあ大方そういうことじゃけど、小林はこう言うことでもっと主張したいことがるんよ」

しばらく考え、なにか閃くことがあり私は答えた。先生が何言か手助けしてくれたような気もする。

「そうやってなんでも分析するのは無粋だってことですか?」

「そういうことよ。よう読んどる」

彼はにんまりと笑い、私のつたない回答を褒めてくれた。

 

当時、私の学年は200人中約150人が理系選択という環境だった。(恐ろしいのはこれでも理系が例年に比べ少ないということである)そのような中で文系、しかもつぶしの効く経済や法学志望でもない私は勝手に肩身の狭さを感じていたところだった。理詰めの科学がなんぼのもんやねんと言わんばかりの紙の向こうからの小林の力強い語り掛けと、先生の共犯者的な笑みがどれだけ励みになったかわからない。もちろん小林も私も、自然科学はつまらないものだと言いたいわけではない。ただ当時のような環境に身を置いていた私にとって、人文学の尊さや醍醐味をスマートに表現したこの言葉は震えるほど煌めいて見えたのだ。

 もちろん私の拙い読解がどれだけ的を射ているものかはわからないし、今となっては小林秀雄を理解するなんて果てしないことだと思う。専門の方から見たらまるで頓珍漢な問答かもしれないがそれはなにぶん高校生の時の話なので御容赦いただきたい。しかし大きな人文科学という流れの末端のさらにその末端に身を置くものとして、これら原体験が与えてくれたものは果てしなく大きいと断言できる。

 

巡り巡って今、卒業論文で教養教育をテーマにしている。高等教育でも近年軽んじられている教養教育について、それらがもたらすものの大きさを考えている。(ちなみにテーマが壮大すぎて3日に一回くらいのペースで後悔しています)高校時代の自身が人文科学という教養に救われた感覚は間違いなくここに繋がっているだろう。

 

 

以上、高校時代に小林秀雄を教えられた話でした。ちなみに現代文の教科書で個人的に面白かった三大教材はこの「無常ということ」と加藤周一の「日本文化の雑種性」、谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」で、久しぶりに読み返してもめちゃくちゃ面白くて感動しました